コラム

ウイスキーのテロワールを追求したアイラ島のブルックラディ蒸留所

コルトンの丘

テロワールはワインでは当たり前の概念だが、醸造酒ではない蒸留酒、ましてや穀物を原料とするウイスキーについて言われることは、今まではほとんどなかった。原料穀物、特にモルトウイスキーの原料である大麦については、誰もテロワールを認めてこなかったし、ウイスキーの香味を決める要素は原料の大麦や、それを製麦した麦芽ではなく、蒸留器の形や大きさ、さらには加熱方法、そして最終的な樽熟成に負うところが大きいというのが、長い間の常識であった。そこに一石を投じたのが、アイラモルトのブルクラディ蒸留所である。
ブルックラディは1881年に創業した、アイラモルトとしては比較的“若い”蒸留所で、アイラの代名詞とも言われるボウモアやラフロイグ、ラガヴーリンやアードベックの名声に隠れて、かつてはマイナーな存在であった。事実、いく度も経営不振に陥り、オーナーが何度も替わり、そのたびに操業停止に追い込まれてきた。スコッチが低迷した1980年代から90年代にかけては、ほとんど生産されなかったと言っていいくらいだ。そのブルックラディの再建に乗り出したのが、ボトラーズ(独立瓶詰業者)のマーレイ・マクダビッド社と、その時に蒸留所復活を任せられたジム・マッキューワン氏だった。マーレイ・マクダビッド社の代表は長年ワインビジネスに携わってきたマーク・レイニエー氏。ジム・マッキューワン氏は元ボウモアの所長で、“アイラの伝説の男”と呼ばれた人物である。
 ブルックラディの復権に乗り出した2人が共通して抱いた思いが、「スコッチなのに、スコットランド産の大麦を使わないのは、おかしい」ということだった。スコッチの蒸留所が使う大麦の70%以上が、イングランドやアイルランド、ドイツ、フランスといった外国産。スコットランド国内の大麦を使うところは当時3割にも満たなかった。中でも、世界中にファンがいて、今日のウイスキーブーム、シングルモルトブームを支えてきたアイラの蒸留所が使う大麦は、ほぼ100%が外国産(おもにイングランドのノーフォーク産大麦)であった。
そこでブルックラディ復活のスローガンとして掲げられたのが、「すべてスコットランド産、アイラ産の大麦を使う」ということだった。もちろん、これには他のアイラの蒸留所との差別化ということもあった。この中でスコットランド産大麦については、それほど問題ではなかった。スコットランドの大麦生産量は年間160万トン近くあり、十分購入可能だった。ブルックラディの年間生産能力は最大で約200万リットル(LPA.100%アルコール換算)。それに必要な大麦麦芽の量は5万トンくらいで、弱小のブルックラディでも交渉次第で手当てはつくことになる。問題はアイラ産の大麦を使うというテロワールを追求するためには、アイラ産の大麦が不可欠ということだった。

農家を説得して牧草地から大麦畑に転換

アイラ島はスコットランド西岸に南北に連なるインナーヘブリディーズ諸島最南端の島で、面積的には日本の淡路島をひと回りくらい大きくした島である。人口はわずか3500人。しかし、ここには現在9カ所の蒸留所があり、世界中のウイスキーファンから“聖地”の1つとして崇められている。年間に訪れる観光客は10万人を超え、その9割以上がアイラの蒸留所を回ることを目的としているのだ。
島の最大の産業はもちろんウイスキーだが、ウイスキー、特にアイラモルトが今ほど人気でなかった1990年代まで島の産業は農業、それも放畜が中心だった。私が初めてアイラ島を訪れたのは今から35年前の1989年のことだったが、その時、目にしたのが人間の数よりはるかに多い羊の数だった。つまりアイラ島ではほとんど畑を見ることはなく、大麦を栽培する農家は皆無だったということだ。なんと100年以上にわたって、アイラで大麦はつくられたことがないという。そこでブルックラディのジムさんらが中心になって、農家を説得するという作業が始まった。羊の放牧地を畑にという、説得である。
もちろん収穫された大麦はプレミアムを払って全量買い取るという条件もつけた。イギリス全土を襲った口蹄疫や狂牛病の騒ぎもあり、農家は牧畜を続けることに不安を抱いていたこともあり、次第に農地転換をして大麦栽培に応じる農家が増えていったという。現在、アイラで大麦を栽培する農家は30軒近くまで増え、その農地面積は2000ヘクタールを超えるという。すでにブルックラディが使う麦芽の40%近くがアイラ産の大麦となっていて、残りの60%もすべてスコットランド産である。
その過程でわかってきたのが、同じ農家でも畑によって大麦の質が違い、それがウイスキーの味にも影響するということだった。ブルックラディでは農家ごとの仕込みをやっているが、今では同じ農家でも畑ごとに仕込みを変えるという。さらに、最近は畑の違いによるテロワールだけでなく、ワインと同じように、大麦の品種による味の違いということも注目されるようになってきている。
昨今、世界的なクラフトウイスキーブームで、多くのクラフト蒸留所が取り組み始めているのが、大麦の品種による仕込みの違いである。スコッチが近年優良品種としてきた大麦だけでもオプティック、コンチェルト、ロリエット種など10種類以上あるが(大麦の品種改良は日進月歩で、毎年30~40種の新品種が生まれている)、それに加えて、かつての品種やビール大麦、さらには古代品種、ヘリテージ品種といわれるものも、研究室などから種を探してきて、それを復活栽培させるというところも増えている。先のブルックラディが定番商品として出しているものの1つにベア大麦というのがあるが、これは5000年前くらいから栽培されているという古代品種である。
今、ウイスキーの世界は主原料である大麦の品種による香味の違い、そしてそれが栽培される農地の土壌の違い、気候風土といったテロワールに、多大な関心を寄せる時代に入ってきているのだ。

写真: 
1)アイラ島に大麦栽培を復活させたジム・マッキューワン氏。収穫直前の大麦畑で2条大麦を手にしながら、その意味を熱弁する。村上春樹さんの『もし僕らの言葉がウイスキーなら』という本で有名になった人物だ。

2)アイラ島の西岸に位置するブルックラディ蒸留所。1881年の創業だが、1990年代はほぼ生産停止に追い込まれ、入り口の扉にはいつも頑丈な鍵がかかっていた。