コラム

ふたつのコンテルノ

コルトンの丘

バローロはその醸造方法から、「伝統派」「改革派」「バローロ・ボーイズ(急進派)」というカテゴリーに分けて語られてきました。バローロ・ボーイズが出現したのは1980年代で、私がサンフランシスコのワイン生産者団体での勤務を始めた1994年当時、カリフォルニアの市場を席巻していたのはエリオ・アルターレやロベルト・ヴォエルツィオ、パオロ・スカヴィーノなどであり、この醸造上の革命を主導したマルク・デ・グラツィアはロックスターのような存在でした。現在、当時の彼らのワインと伝統派のワインを比較試飲してみると、伝統派がボトル熟成のピークで複雑味をたたえている一方、果皮の浸漬を極端に短縮したバローロ・ボーイズのワインの多くは、飲み頃のピークを過ぎています。

バローロとバルバレスコ
(出典: Consorzio di Titela Barolo Barbaresco Alba Langhe e Roero
 

ふたつのコンテルノ

 最良の伝統派バローロとしてよく挙げられる生産者には、ジャコモ・コンテルノやブルーノ・ジャコーザ、ヴィエッティなどがあります。個人的にはアルド・コンテルノも入れるべきだと考えているのですが、同社は伝統的なバローロを醸造する一方、バローロ以外ではバリックを用いるなどの革新的な手法も取り入れているため、上記3社と同列に扱うことにためらいを感じる専門家も少なくありません。アルド・コンテルノはもともとジャコモ・コンテルノの一族ですが、サンフランシスコや米軍で5年過ごす間に、アメリカ風の伝統にとらわれない気風を得て、伝統的手法を頑なに守る兄のジョヴァンニ・コンテルノ(3代目)と袂を分かつことになりました。
 アジェンダ・ヴィニコーラ・ジャコモ・コンテルノ(「アジェンダ・ヴィニコーラ」は「ワイナリー」の意味)は1908年頃、バローロ地区南端のモンフォルテ・ダルバ村近郊で、創業者のジョヴァンニ・コンテルノが居酒屋を開店したことに始まります。ジョヴァンニは店で売るためのバローロを購入ブドウから醸造していたのですが、売れ残ったワインは樽で売却していました。ワインを自社で瓶詰めし、「コンテルノ」のラベルを貼って販売したのは、息子のジャコモが第一次世界大戦から復員してからで、ワイナリー名はこの2代目に由来します。同社の最上級銘柄であるバローロ・リゼルヴァ・モンフォルティーノ(Monfortino)が初めて瓶詰めされたのは、1924年ヴィンテージであるとされています。

南西向きのカッシーナ・フランチャ畑


ジャコモ・コンテルノの発酵タンク


ロベルト・コンテルノ氏と熟成用大樽


試飲ワイン(一番右がモンフォルティーノ、その左がカッシーナ・フランチャ)

 1930年代に初代のジョヴァンニが亡くなると、2代目のジャコモが居酒屋とワイナリーを継承しました。彼には二人の息子があり、このジョヴァンニ(1929-2004)とアルド(1931-2012)の兄弟が1960年代初頭には、ワイナリーの実質的な経営を担うようになります。
次男のアルドは1954年、サンフランシスコに住む二人の叔父がナパ・ヴァレーに建設する予定のワイナリーでワインメーカーとして従事するため、招聘されてアメリカに渡ります。しかしながら訪米直後、アルドは米国陸軍に徴兵され、朝鮮戦争直後の韓国に2年間配属されました。除隊後、アルドはサンフランシスコに戻るのですが、ふたりの叔父の片方が亡くなっていたためワイナリー建設計画は取りやめとなり、イタリアに戻ることになりました。
一方、ピエモンテに残っていた長男のジョヴァンニは父親のジャコモとともにワイン醸造を続け、1959年からは醸造責任者となっていました。兄弟はともに醸造技術者になるべく、父親から訓練を受けてきたのですが、ピエモンテから外に出たことがないジョヴァンニが伝統を頑なに守ろうとする一方、5年近くを海外で過ごしたアルドは変革を志向しました。ふたりのワインメーカーは、ワイン醸造の方向性の違いからたびたび衝突するようになり、最終的に財産を二分し、アルドがポデーリ・アルド・コンテルノ(「ポデーリ」は「農園」の意味)として独立することになります。ワイナリーはジャコモ・コンテルノのセラーから車で10分ほどの、同じモンフォルテ・ダルバ村のなかにあります。

 

アルド・コンテルノ

1969年の独立後、アルドはバローロに対する需要の高まりからブドウの需給が逼迫することを予見し、ブドウ畑の取得を始めました。アルド・コンテルノを代表する3つの単一畑のチカラ(Cicala)、コロネッロ(Colonello)、ロミラスコ(Romirasco)はこの時期に購入されたもので、優良年にはこの3つの畑から選抜された最良のワインをブレンドして、リゼルヴァ・グランブッシア(Granbussia)を600ケース(1ケースは750mlボトル12本 = 9リットル)程度瓶詰めしています。ポデーリ・アルド・コンテルノは標高400メートルのブッシア・ソプラーナ地区に25ヘクタールのブドウ畑を所有し、毎年12,000ケース程度のワインを生産しています。
グランブッシアは通常、ロミラスコ70%とチカラ15%、コロネッロ15%のブレンドで、初めて試験的に醸造されたのは1970年ヴィンテージでした。伝統派としては短めの、2週間程度の果皮のマセレーションをアルコール発酵の前後に行ったあと、スラヴォニアン・オークの大樽で3年熟成させ、その後さらにステンレスタンクで2年間寝かせます。瓶詰め後は、グランブッシア専用の貯蔵庫で1年以上休ませてから出荷します。果皮の醸しが典型的な古典派よりも短めである一方、オークの小樽を用いない、伝統的な熟成方法により、ワインの味わいは伝統派バローロの萎れたバラのような風味をもつ一方、アンジェロ・ガヤのワインに感じるような果実の深みがあります。

アルド・コンテルノ社

米国陸軍の兵士として韓国駐留時のアルド・コンテルノ氏
(右から2番目)


アレッサンドロ・コンテルノ氏(アルドの孫)

ジャコモ・コンテルノ

  アジェンダ・ヴィニコーラ・ジャコモ・コンテルノは、小規模のバローロ生産者としてはもっとも早い、1920年代に自社でボトル詰めを始めたワイナリーのひとつです。当時のバローロは出荷から1~2年のうちに飲まれるのが普通で、樽やデミジョン(大型の瓶)で流通していました。1924年ヴィンテージからボトリングが開始されたリゼルヴァ・モンフォルティーノは長期ボトル熟成を意図したバローロで、「瓶詰め直後は渋すぎて飲めないが、30年や40年経ってから偉大さを発揮する」といわれていました。ブランド名の「モンフォルティーノ」は、ジャコモ・コンテルノ社が所在するモンフォルテ・ダルバ村に由来します。
ジャコモ・コンテルノ社のワインは長らく購入ブドウから醸造されていたのですが、弟のアルドが独立した後の1974年になって、ジョヴァンニはセラルンガ・ダルバにある14ヘクタールの畑、カッシーナ・フランチャ(Cascina Francia)を取得します。この自社畑から初めてワインがつくられたのは1978年ヴィンテージでした。
ジョヴァンニが2004年に亡くなった後、末息子のロベルトが当主を継いだのですが、バローロの伝統的な醸造方法もそのまま受け継いでいます。2008年にはやはりセラルンガ・ダルバにあるチェレッタ(Cerretta)の畑に区画を購入し、さらに2015年にはカッシーナ・フランチャに隣接するアリオネ(Arione)の大部分も取得しました。現在のワイナリーの年産は5,000ケース程度で、「カッシーナ・フランチャ」の名称は2010年ヴィンテージから「フランチャ」に変更されています。


アルド・コンテルノの熟成用大樽

 バローロ・カッシーナ・フランチャには30℃未満の温度で3~4週間の果皮の浸漬が行われている一方、良作年にのみカッシーナ・フランチャ畑の厳選された区画から580ケース程度醸造されるバローロ・リゼルヴァ・モンフォルティーノには、温度調整をすることなく5週間程度のマセレーションが行われています。その後、熟成はスラヴォニアン・オークの大樽で7年間におよびます。発酵温度を調節していないため、テイスティングではモンフォルティーノに揮発酸を感じることがありますが、決して否定的な個性ではなく、ワインに複雑味や深みを与えています。萎れたバラのような香りにタールのニュアンスが加わり、初めてワインを飲む人は顔をしかめるでしょうが、バローロを飲み慣れたひとには生涯忘れられなくなる、唯一無二の味わいです。2022年に亡くなった、イタリアワイン研究の世界的権威であったニコラス・ベルフレージは、「自分がいまわの時に最後に口に入れてほしいのはモンフォルティーノだ」と書き残しています。

アルド・コンテルノでの試飲

ボトル熟成中のグランブッシア

トップ画像:ジャコモ・コンテルノ社