コラム

奇跡の復活を遂げつつあるアイリッシュウイスキーとは(前編)

コルトンの丘

アイリッシュとスコッチどちらが元祖で、どちらが本家か?

ウイスキーは穀物を原料とした蒸留酒で木製の樽で熟成させたものというのが、世界的な定義である。つまり①穀物原料、②蒸留酒、③木樽熟成という、3つの要件全て満たしてはじめてウイスキーと呼ぶことができるのだ。地域・産地別に見たとき、スコットランドで造られるスコッチウイスキー、アイルランドで造られるアイリッシュウイスキー、アメリカやカナダのアメリカンウイスキー、カナディアンウイスキーがあり、そこにジャパニーズウイスキーが加わって、「世界5大ウイスキー」となる。この5カ国(国・地域)で、世界のウイスキー生産量の実に9割近くを占めている。中でもスコットランドで造られるスコッチウイスキーは5大ウイスキーの6割近くを占め、名実ともにウイスキーの代名詞、蒸留酒の王様としてスピリッツの世界に君臨している。

ウイスキーが初めて文献に登場したのは1494年のことで、スコットランド王室財務係の出納帳に、『王命により修道士ジョン・コーに8ボルの麦芽を与え、アクアヴィテを造らしむ』とある。この時の王とはスコットランド王ジェームズ4世(在位1488~1513年)のことで、8ボルとはスコットランドの古い単位で、今でいう500キログラムに相当する。つまり0.5トンの麦芽を修道士ジョン・コーに与え、アクアヴィテ、蒸留酒を造らせたということだ。もちろん中世の修道院ではブドウを原料とした蒸留酒は宗教上の必要から造られていたが、それはウイスキーではない。麦芽(大麦)という穀物を使った蒸留酒というところが、この記録の重要なところで、これが今日でいうウイスキーの原型と考えられているのだ。それ故にこれがウイスキーについて言及した人類初の記録ということになっている。

ではウイスキー造りはいつ頃、どうやってスコットランドに伝わったのだろうか。前述の記録のもう1つのポイントは、それが民間ではなくキリスト教の修道院で造られていたということである。当時ウイスキーは不老長寿、あるいはペスト(黒死病)の特効薬と考えられていて、飲用というより、どちらかというと薬用、宗教上の酒だった。キリスト教がスコットランドに伝わったのは西暦6世紀頃のこと。伝えたのはアイルランド出身の聖コロンバだとされ、もともとキリスト教はアイルランドからスコットランドに伝わった。

アイルランドにキリスト教を広めたのは有名なセント・パトリックで、これは1世紀以上前の西暦5世紀頃のこと。つまり、キリスト教もウイスキー造りもスコットランドよりもアイルランドのほうが古く、故にウイスキーの元祖はアイルランドであるというのが、アイルランド人の主張である。たまたま記録として文字で残っているのはスコットランドだが、酒としてはアイルランド発祥というのが、アイリッシュの主張なのだ。「キリスト教もウイスキー造りも、アイルランド人がスコットランド人に教えてやった…」というのが、彼らがスコッチに対して、唯一溜飲を下げることができる事実なのである。

※アイルランド中部にあるキルベガン蒸留所。創業は1757年でアイルランドでもっとも古い蒸留所となっている。現在はサントリーの所有。

イーニアス・コフィーの連続式蒸留機とスコッチブレンデッドの誕生

スコットランド人もアイルランド人も、同じケルト民族の一派、ゲール族の出身。母語はゲール語で、ウイスキーはもともとラテン語で蒸留酒を意味するアクアヴィテ(生命の水)をゲール語に置き換えた、ウシュクベーハー、ウスカバッハから派生した言葉である。ウシュク、ウスカが水で、ベーハ、バッハが命のことである。アイルランドとスコットランド、どちらがウイスキーの元祖で、発祥の地なのかという議論は置いておくとして、この2つのウイスキーは大英帝国の旗のもと、19世紀初めから20世紀前半にかけて、激しく鎬を削り合ってきた。

 蒸留所の数についていえば、どちらも19世紀初頭には200ヵ所近くあったが、度重なるイングランド政府の課税により弱小の造り手が淘汰され、19世紀半ば以降はどちらも30~50ヵ所前後となっている。アイリッシュが生産規模を大きくして課税に対抗してきたのに対し、スコットランドはハイランド中心に、小さな蒸留所が細々と経営を続けてきた。アイリッシュの全盛時代は19世紀半ばから20世紀初頭にかけてで、1870年代から80年代にかけ、世界のウイスキー生産量の60%以上は、アイリッシュウイスキーだったという。

※北アイルランドにあるジャイアントコーズウェイ。有名な景勝地で世界遺産に認定されている。

※ジャイアントコーズウェイのすぐ近くにあるプッシュミルズ蒸留所。ジェムソンについでアイリッシュとしては2番目の出荷量を誇る。現在はテキーラのホセクエウボ社が所有。

 転機が訪れたのが、アイルランド人、イーニアス・コフィ―による連続式蒸留機の発明で(1831年)、これにより大麦以外の穀物を使ったグレーンウイスキーが大量に、安く造れるようになった。アイルランド人はこのイーニアス・コフィ―の新しい発明に飛びつかなかったが、質・量ともに劣っていたスコッチのローランド地方の業者が、この新しい発明に飛びついた。これがスコッチのグレーン産業で、やがて大量に安く造られたグレーンウイスキーと、ハイランドのモルトウイスキーを混ぜたブレンデッドウイスキーが、スコッチに誕生する。1853年から60年にかけてで、このスコッチのブレンデッドが全盛時代を迎えたのが、1880年代から1900年代にかけてである。

 連続式蒸留機の導入で遅れをとったアイリッシュは、当初スコッチのブレンデッドに対抗するため、アイリッシュ独特のポットスチルウイスキー(3回蒸留のライトタイプのウイスキー)に磨きをかけたが、1900年代以降はアイルランドの独立戦争、第一次、第二次世界大戦、アメリカの禁酒法(1920~33年)と相次ぐ、逆風にさらされ、1950年代以降は衰退の一途をたどった。1970年代後半には、かつて200ヵ所を超えたというアイリッシュの蒸留所は、北のブッシュミルズと南のミドルトンの2つを残すのみとなってしまった。対してスコッチは、1950年代以降、全世界に販路を広げ、現在200カ国近くに輸出、その輸出金額は日本円にして1兆円を超えるまでに成長している。

※新タラモア蒸留所の最新鋭の連続式蒸留機。グレンフィディックで有名なスコッチのウィリアム・グラント社が所有している。

 アイリッシュとの元祖争い、販売合戦に勝利した1950年代から60年代にかけ、当時スコッチ蒸留所の半分近くを傘下におさめていたスコッチのディスティラーズ・カンパニー・リミテッド、通称DCL社の取締役会のランチミーティングで、スコッチの重役たちが、アイリッシュを称してこう言ったという。「アイルランド人というのは、つくづくアイロニーに満ちている。連続式蒸留機を発明したイーニアス・コフィ―はアイルランド人だったが、スコッチ産業に多大な貢献をした。そもそもイーニアスはコフィー、コーヒーなのにウイスキーの恩人となるとは…」

 そんなアイリッシュも2000年のミレニアム以降、奇跡の復活を遂げつつある。たった20年で蒸留所の数は2つから50近くまで増え、販売量も毎年、率にして2桁増を達成。かつて輸出量は100万ケース(1ケースは750mlボトルで12本換算)ほどと言われたが、現在(2022年)は1800万ケースと、20年で18倍にまで増えている。次回は、奇跡の復活といわれる“アイリッシュルネッサンス“について、具体的なレポートをお届けする。