コラム

1992年の解任

コルトンの丘

1992年、ラルー・ビーズ=ルロワは、血を分けた姉の議決権行使により、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社(DRC)の共同代表取締役を解任されました。

ルロワ

メゾン・ルロワは1868年、ブルゴーニュの小さな村、オクセ・デュレスに設立されたネゴシアン(酒商)で、三代目当主のアンリ・ルロワが第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて、コニャック地方のブランデーをドイツのアスバッハ社等に輸出し、富を築き上げました。彼はこの蓄財によって1942年、法人化されたばかりのドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社の株式の50%を取得しただけでなく、DRCを資金的にバックアップし、フィロキセラによって荒廃したロマネ・コンティの畑のブドウ樹を1945年にすべて引き抜いて植え替えを行ったり、モンラッシェの畑の一部を買収する原動力となりました。アンリ・ルロワは1980年に亡くなりましたが、DRCの株式と議決権は均等に、彼の二人の娘、ポーリーヌ・ロック=ルロワとラルー・ビーズ=ルロワに引き継がれました。メゾン・ルロワはワインとスピリッツを扱うネゴシアンとして創業したものの、時代背景も影響して、そのワインビジネスの方は成功からは程遠いものでした。今日まで続くネゴシアンとしての名声を確立したのは実は、23歳の若さで家業に入ったマルセル(現在の通称「ラルー」)で、1955年以降、彼女はブルゴーニュの生産者を精力的に訪問してそのワインを試飲し、最高の樽だけを購入してメゾン・ルロワのラベルで販売しました。気高く、自己主張の強い彼女は、特定の生産者から毎年自動的にワインを買い付ける複数年契約や、付き合い上の購入を忌み嫌い、プレミアム価格を支払ってでも、最高のワインだけを選択的に購入する方法を選びました。これにより、「品質のルロワ」としての名声は確固たるものとなったのですが、この手法はワインの価格が高値安定し、ほとんどの優良ワイン生産者が元詰めに走る1980年代に破局を迎え、自分の気に入ったワインがバルクでは購入できない事態となります。生産者たちは当然、最高の樽は自分の名前で瓶詰めし、高値で販売する一方、ネゴシアンには質の劣るロットしか売却しなくなっていたのです。品質に強いこだわりをもつラルー・ビーズ=ルロワに、残された道はたったひとつしかありませんでした。それは、みずからが畑を所有してワインを生産することで、1988年、ラルーは売りに出ていたドメーヌ・シャルル・ノエラの購入を決意し、姉のポーリーヌと共にメゾン・ルロワの株式の3分の1を高島屋に売却し、その6,500万フランに及ぶ買収資金を調達します1 )。こうしてDRCと同じヴォーヌ・ロマネ村に設立されたドメーヌ・ルロワは、翌年にはジュヴレ・シャンベルタン村のドメーヌ・フィリップ・レミーを買収し、特級畑9つを含む22ヘクタール超の帝国が出来上がります。投資は畑にとどまらずワイナリーにも及び、旧ドメーヌ・シャルル・ノエラのセラーを改築し、新樽など、高品質のワイン醸造に必要な設備を、金に糸目をつけずに購入する一方、オスピス・ド・ボーヌからアンドレ・ポルシュレを引き抜いて醸造にあたらせました2 )。また、同じ1988年、ラルーは夫のマルセル・ビーズと共にサン・ロマンのドメーヌ・ドーヴネイを個人的に購入し、姉のポーリーヌの意見を聞き入れる必要のない、利益や株主配当を省みない、究極のワインづくりをフリー・ハンドで開始します。

 

 

DRCの葛藤

1988年の設立以降、ドメーヌ・ルロワとDRCの間にはさまざまな葛藤が浮き彫りとなりました。ラルーは、DRCでは承認されなかった特殊な自然農法であるバイオダイナミクスを導入し、この分野で強い発言力をもつようになる一方、この農法を採用させてくれないDRCの他の取締役を表立って批判したり、DRCのワインを試飲にきたジャーナリストをドメーヌ・ルロワにも招き入れ、「DRCのワインよりも、ドメーヌ・ルロワのものの方が優れている」といった発言を繰り返すようになったといいます。特に、両社はリッシュブールとロマネ・サン・ヴィヴァンにそれぞれ区画を所有するため、これらのワインは比較試飲の対象となり、「どちらのワインの方が批評家から高い評価を得るか」「どちらのワインの方が高価格で販売されるか」に高い関心が寄せられるようになりました。ロバート・パーカーはラルーの初ヴィンテージである1988年のロマネ・サン・ヴィヴァンに98点という最上の評価を下す一方、DRCのロマネ・サン・ヴィヴァンは90点とし、これ以降、米国市場ではロマネ・コンティとモンラッシェを除いて、DRCのワインよりもドメーヌ・ルロワの方が高額で取引される状態が出現します。自社の共同代表取締役が最大のライバルとなり、しかもその人間がDRCのワインを臆面もなく批判するという状況は、DRCの他の株主にとって耐え難いものでした。

 

 

投機

長年、DRCのワインは投機を避け、世界中に隈なく届けるため、ロマネ・コンティ1本に対して他の赤ワイン11本を抱き合わせて販売する方法を取っていました3 )。また、売り上げの50%を占める米国と、10%の英国に対してはDRCが直接輸出する一方、他の市場へはメゾン・ルロワ経由で販売していました。こうしたDRCのワイン販売に対するメゾン・ルロワの既得権益は、残りの50%の株式を所有するド・ヴィレーヌ家一族にとって長らく不満の種でしたが、DRCワインの取り扱いが売り上げの4分の3を占めていたメゾン・ルロワにとっては死活問題であったため、再三にわたるド・ヴィレーヌの申し入れにもかかわらず、ラルーが解任される1992年(1988年ヴィンテージ)まで続きます。日本がバブル経済に沸いた1980年代末、赤坂にあった許永中氏の葡萄亭ワインセラーに代表される日本の業者が、ヨーロッパ各国の輸入業者からロマネ・コンティを言い値で買い取るようになってから、ヨーロッパの業者はルロワ経由でより多くの割り当てを要求する一方、残った11本の抱き合わせワインを米国向けに、DRCの輸出価格を下回って並行輸出するようになり、米国の輸入総代理店であるウィルソン&ダニエルズ社のDRCビジネスは破綻します。そして、売り上げの50%を占める米国からの大量の返品に直面したDRCは、この状況を黙認していたとして、ラルー・ビーズ=ルロワを解任することになります。ラルー・ビーズ=ルロワの解任後、ルロワ家側からは彼女の姉ポーリーヌの長男シャルルがDRCの共同経営者となりましたが、直後に交通事故で亡くなったため、弟のアンリ=フレデリック・ロックが後任を務めていました。そして、アンリ=フレデリックが2018年11月に膵臓ガンで死亡したため、現在のルロワ家側からの共同経営者は、ラルーの娘のペリーヌ・フェナルとなっています。

 

アンリ・ジャイエが2006年に亡くなってから、ドメーヌ・アンリ・ジャイエのワインは一般人の手の届かない価格に達しました。市場は1932年生まれのラルー・ビーズ=ルロワの健康を不安視しているのか、今年に入ってからドメーヌ・ルロワのワインは異常な高騰を続けています。

 

 

1) DRCの株式の50%を保有しているのがポーリーヌ・ロック=ルロワとラルー・ビーズ=ルロワ個人であるにもかかわらず、法人としてのメゾン・ルロワと誤解したジャーナリストが「日本人がロマネ・コンティを買収しようとしている」と報じたため、フランス国内で反日感情が湧き起こり、政治問題に発展した。

2) ラルー・ビーズ=ルロワとの意見の対立から、アンドレ・ポルシュレは1994年にオスピス・ド・ボーヌに戻り、その後引退した。

3) 組み合わせは収穫年によって異なり、1988年ヴィンテージの場合はロマネ・コンティ1本、ラ・ターシュ3本、
  リッシュブール2本、ロマネ・サン・ヴィヴァン3本、グラン・エシェゾー1本、エシェゾー2本であった。

参考文献
Olney, R., ‘Romanée-Conti’(Paris, 1991)
Mansson, P.-H., ‘Behind the breakup at Domaine de la
Romanée-Conti’(Wine Spectator, 15 Feb. 1993)